浅井健一の問いは今もなおどこかで立ち上がる【Blankey Jet City】

2016年6月19日

浅井健一率いるBLANKEY JET CITYが初めてテレビで彼らの音楽を披露したのは、1990年「イカ天」(三宅裕司のいかすバンド天国)である。

彼らはすぐに多くの人を魅了した。翌年メジャ―デビューを果たし、その伝説的な軌跡は今もなお多くのファンの心に焼きついているのだ。
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出典spice12345.wordpress.com


彼らの音は何を癒したのだろうか。

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出典blog.livedoor.jp

彼らのサードアルバムに惹かれる人は多い。浅井のグレッチのエレキ、テネシアンの響きと独特のハイトーンの強い声、照井利幸の太くかつメロディアスなベース音、中村達也のホットで流れるようなビート、これらが一体となったバンドサウンドの強さは、比類ないものと思える。

浅井の歌詞の奥には人間に対する深い愛が込められている事か分かる。
「車泥棒」の歌詞には遊園地で迷子になった子どもと母親の再開が、車泥棒の言葉で歌われ、単車乗りたちの仲間意識はユーモアで飾られている。

彼が暴力を肯定したり否定したりすることなく、そこに清らかなものを同居させることによって、善悪を超える人間の魂を提示していることが読み取れる。彼らの奏でる音は激しく強い。歌詞も過激と言われることもあろう。

しかしそれだけの表現にこれだけ多くのファンが喝采を送るだろうか。聴衆が惹かれるのは音楽的な質の高さと同時に浅井健一の心なのだ。


土屋昌巳は浅井健一と照井、中村に何をもたらしたのか。

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出典topic.auctions.yahoo.co.jp

土屋昌巳はあの「すみれセプテンバーラブ」の原曲を作ったギタリスト・ヴォーカリストであるが、彼は浅井健一、照井利幸、中村達也、この奇跡のトリオに魅せられ、自らプロデュースを申し出る。

機材の選択、マイク位置や音質の検討等、ブランキー・ジェット・シティに自らの経験を生かしたアドバイスを重ね、それを受け入れたメンバーによる数枚のアルバムを作っている。
中村は言う「イントロのハイハットを聞いた時びっくりした」と。そのような緻密な構成があった。

しかしブランキーのエネルギーはそこにとどまらなかった。独自のプロデュースを始めた。それがアルバム「スカンク」である。浅井のファンと公言して憚らない椎名林檎は、このスカンクという曲に惹かれると言った。


ブランキー・ジェット・シティの解散。

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10年間の活動を精力的にこなしたブランキー・ジェット・シティーは、ファンに惜しまれながら解散を宣言した。解散については様々な意見や憶測などがある。しかし憶測はあくまでも憶測である。

2000年7月9日横浜アリーナ2Days「LastDance」を最後に彼らが解散したのが事実であり、それ以外の何ものでもない。こよなくライブを愛し、多くの聴衆に興奮とカタストロフィーを体験させた彼らの三人での活動は終止符が打たれた。ただ、彼らの音楽的な情熱はとどまるところを知らなかった。

解散後、浅井健一は自らのレコード会社を設立し浅井健一として音楽を発信した。かつ、シャーベットの活動も並行している。


浅井健一が大事にしたものとは。

浅井健一は自らの公式サイトに書いたことがある。それは、どうして空は青いんだろうかという問いかけだった。問いかけた後に彼は書いた。「この星に酸素があるからだって」と。

私はこの言葉に浅井健一の本質的な感性が表れていると思う。彼の楽曲を聞いていくと彼の頭上には星があり、彼の近くには海がある。彼の「哲学」を聴いていると、彼がこの星を感じ、人の温かさを感じ、歌うことで自分の問いを発しているように思える。

私は思う。彼のように問いを発することのできるミュージシャンが本物だと。